2013年9月27日金曜日

心を自由に解き放て

秋晴れだ。
すごく気持ちがいい。

風が優しく頬を撫でる。
生きる力を与えるかのように、陽の光が僕に降り注ぐ。

iPodからMaroon5のpayphoneが流れている。


昨日、自分が書いた小説を読んだ。
客観的に、一読者として読んだ。
荒削りで、素人感丸出しで、お世辞にも秀逸とは言えない。それでもそこには何か想いを感じた。

作者である僕のひいき目であることは否定できないけれど、少なくとも心の無い空っぽなものではなかった。

少しだけ救われた。

特定の誰かへの嫉妬、うまくいかない現実への不満、そういったモヤモヤした何かに心を奪われる前に。

心を自由に解き放て。

あれがない、これがないなんて無いものを探したら日が暮れてしまうよ。

あるものを今一度確かめて見ようよ。
何があるんだろう?
きっと素敵な何かがあるはずだ。

心の持ちようで世界は変わるから。
心を自由に解き放て。

解き放つんだ。

2013年9月23日月曜日

形にすることが大事なんだ。

形にすることが何よりも大事なことかもしれない。

頭の中にあるイメージを、形にすることが。

自分が見えていることを人に伝えるには、言葉だけでは足らなくて。

お互いが確かめ合うことができるように、形にすることが必要なんだと気づいた。


形といってもPowerPointで丁寧に作られたクオリティの高いものである必要はなくて、手書きの絵でもいいし、文章でもいいし、何でもいい。

相手がより具体的にイメージしやすいように、何らかの方法で具現化することが大事なんだ。

2013年9月20日金曜日

諸行無常

僕にとって文章を綴ることは例えば、草木が光を求めてその葉先を変えるように、あるいは小さな子どもが少し大人びて溜息をつくように、とりたてて取り上げて何かを語るほどのことでもない、自然で日常にある行為そのものであります。

ある時はノートに、ある時はそこらにある紙の切れ端に、またある時はこうしてかつては電話としてのみ使われていた文明の利器に、心のしじまをすり抜けて溢れ出た形のない不確かな想いの丈を、そっくりそのまま投写しようと手間暇をかけるわけであります。

ある人が水の流れを見て落ち着くように、ある人が木々のざわめきを聞いて穏やかになるように、僕は一つ文章を綴ることで自己の平静を自然と取り戻す術を身につけているとも言えます。

さて、僕はここでも何度か述べましたが、今年の三月に小説を書き終えて文学賞に応募しました。

その一連の行為を口にすると、多くの人は感嘆の声を上げますが、これが数十年前だったら?と思うと、ちっとも同じような反応が返ってくることをイメージできないのも事実です。

そう。現代人は文章を書く機会そのもののを失いつつあるように思うのです。

それは時代が変わってしまったからだと、一言で片付けるのは間違いではありません。なるほどその通りです。電報はメールになり、便りはFacebookになり、誰に届くとも分からない心境の吐露はこうしてブログになりました。

確かに時代は変わりました。そしてこれからも変わり続けて行くでしょう。おそらく100年前にも人々は同じようなことを言っていたかもしれません。

ただ僕は思うのです。では人も同じように変わったのか?と。時代の移り変わりとともに、僕たち人も変わってしまったのか?と。

答えなんてありません。推し量る根拠もないでしょう。それであればここは、まだもう少し続くであろう私自身の寿命が絶えるまで、この世界をこの目に映し、変わる時代とそこに生きる僕ら自身を見つめて行く。

それもまた一興だと思うのです。

2013年9月16日月曜日

徒然


このエントリーから始まったこのブログ。

「City Lights Orchestra」と、
同じタイトルで書いた小説も、書き終えてからしばらくの時が経ちます。

さて今日は、台風。
家に出る予定はしばらく無いので、
パチパチとMac book airのキーボードを叩いています。


ふと頭に浮かんだことを、こうして文章にする。

僕にとってこの行為は、思考を整理するのに必要な事だと思います。

「僕はこんなことを考えていたんだ。」と新しい発見がある時に、
文章にすることで得られる『整理された思考』の存在に気づくのです。

閑話休題。

先日26歳を迎えました。
25歳までは、年齢を重ねる自覚があったのですが、
今回は、未だかつてないほど26歳になった感覚が希薄です。

それは自分が26歳ではなく、まだ25歳だという感覚が強いと言うよりは、
26歳になった感覚があまりないと言った方が近いです。

なんだか年齢では計れない未知の領域に足を踏み入れたというか、
年齢を気にしないでいる自分が自然であるというか、
なんともうまく説明できませんが、ぼんやりとそんなことを感じています。

そして、そのかわりといったわけではないのですが、
一日、一日を大切に生きたい。目的を持って行動したい。
無駄にしたくない。無駄だと思うようなことに時間を割きたくない。
今しかできないことをしたい。人生を感動的に過ごしたい。

そういった感覚が強くなっています。
それは年齢がいくつだからこう。といった思考回路ではなく、
直感的に思うのです。


さて、そんな私は今から少し部屋の片付けをします。

服を整理して、書類を整理して、要らないモノを捨てて、
新しいモノが入るスペースを創ります。

この時間が意外に好きだったり、するのです。

2013年9月14日土曜日

スタートアップがスタートするために必要なアレを調達しようの巻

資金調達について、検討しています。

はい。タイトルは何となく含みを持たせました。
テクニックです、ええ。

資金調達の理由は一つ。
今、思い描いているビジネスを実現するためです。

今、自分が持っている知識が乏しいため周辺情報を集めつつ、
人に会って話を聞けるようにアポをとろうと、
Amazonで本を買ったり、連絡をとってみたり。

そんなことをしています。

そんな最中に見つけた、記事。


原文は、ポール・グレアムという人が書いています。写真の人です。
この人、私でも聞いたことがある名前で、スタートアップ界隈なのかIT界隈なのか、
どちらかか両方でとにかく言いたいことは有名な方です。ということです。

「スタートアップが資金調達する方法」
原文タイトル:How to Fund a Startup
http://www.kt.rim.or.jp/~hisashim/graham/startupfunding.ja.html

まだ全てを読み切れていないので、
(すごく長い・・)備忘録がてらリンクを貼らせて頂きました。

今ある知識から、簡単に書くと、資金調達をする先は2つ。

個人からか、組織からか。

個人の場合は、家族から知人までいろいろ。
巷でエンジェルと呼ばれる個人投資家もいますね。

あとは組織。
組織の場合は、出来立てホヤホヤのスタートアップに少額投資する組織から、
多額の投資を、どんとする組織までいろいろあるようです。

メリット、デメリットも当然違うようなので、
本を読んだり、人に話を聞いたりしながら、良い形で(それが何なのかは、まだわからないのですが)資金調達ができればと思います。

今日は短いですが、ここまで。

残り僅かな夏を堪能すべく、(いやもう秋だよって声は聞こえないフリして)半ズボンで外に出たいと思います。

では。

2013年9月13日金曜日

canかcan'tではなくて、doかdon'tを考えるの巻

canかcan'tを考えてしまうから、できない理由をいくつも並べてしまうのであって。

doかdon'tを考えるから、やる(ないしは、やらない)の判断ができるのだと。

僕は最近、そんなことを考えました。


これは、何か新しいことを始める時の思考回路の話。

多くの人は、(私も含めて)canかcan'tを考えると思います。
これはいたって普通の思考回路だし、当然のことだと言えます。

ただ、最近僕が何人かの人に会って心に浮かんだことがあります。
それは、新しい物事にチャレンジする人は、大抵「できるか、できないか?」は考えていないということです。

新しいことをやるのに、「もしかしたらできないかもしれない。」と言った不安は当然あるし、「できない理由」を考えたら、それこそ星の数ほどあるじゃないか。というのが、彼らの思考回路です。

だから、彼らは「できるか、できないか?」ではなくて、「やるか、やらないか?」を考えています。

つまり、思考が先ではなくて決定が先にあります。

こんな感じです。

多くの人
できるか、できないか?(ここを結構考える。答えは中々出ない。)
できる。
やる。

新しい物事にチャレンジする人
やるか、やらないか?
やる。
できる。
(ようにする。できないかもしれないけど、やると決めたからできるまでやる。)


そして、付け加えることはもう一点
やるか、やらないかの判断について。

これはかなり私見も入ってしまうのですが、
つまり、人に聞いた話の受け売りではなくて、あくまで私個人が感じていることなのですが・・。

判断はこんな感じの思考回路によって下されると思います。

やる時のリスクを考える。
リスクとは、一番失敗して上手く行かなかった時に受ける被害のこと。
例えば、起業をするかしないかの判断については・・。
お金がなくなるとか、仕事を失うとか、人に笑われるとか、とかとか。

次に、やらない時のリスクを考える。
例えば、起業をするかしないかの判断については・・。
単純に、年をとって過去を振り返って後悔するとか、
一生、何となく燻ってしまうとか、とかとか。

そして、やる時のリスクとやらない時のリスクに対するリカバー策?を考える。
例えば、お金がなくなるというリスクであれば、起業したビジネスの利益が0円だったことを考えて、何もかも上手く行かなかった時のこと(最大のリスク)を考える。
その上で、それでも起業すべきか否かを考える。

つまり、最大のリスクから、「やるか、やらないか?」を考えるのだ。

ふう。
(ここで一息つく。
さらに、すごく行ってみたいビーチの写真を見つけて貼ってしまう。
すごく良い雰囲気。素敵。行ってみたい!ふう。)


そして、(まとまりのないまま暴走機関車のように文章を続けますが)
ここで一つ、気づいたことがあります。
(もうちょっとで終わるので、着いてきてください。)

それは、「やるか、やらないか?」の人の行動が早いのも、「できるか、できないか?」を考えるのではなく「やるか、やらないか?」を考えているからだと、そう気づいたのです。

「やるか、やらないか?」の人の判断は、一度です。
つまり、「やるか、やらないか?」それだけです。
そして、一度やると決めたら後は、実行するのみだし、もうそれ以上考えることはありません。

だって、やると決めたんですから。

でも、「できるか、できないか?」を考える人は、何度も考えます。
一つ進んで良い情報が増えたら、「できる」と思って喜んで、
一つ進んで悪い情報が増えたら、「できない(かも)」といって落胆する。
その繰り返しをしているから、何度も立ち止まるし、考えてしまうし、
ともすれば、やめてしまうと思うのです。

もしかしたら、ここまでの文章に心当たりがある人もいるかもしれません。

あるいは、私の文章に対して「うるさいな!」と思っている人もいるかもしれません。

そんな人の気持ちを、僕は全てとは言わないまでも、少し分かります。
なぜなら僕がずっとそうだったからです。

「できるか、できないか?」僕はずっと、そんなことを考えていたように思います。
そして時折、思い立ったようにして理由もなく「やる!」と決めて、
決めたはいいものの、根拠や確固たる理由がないばかりに、「どうしようかな?」と足踏みをすることを繰り返していました。

ただ、ようやく「やるか、やらないか?」をどのようにして決めればいいのか、そして決めるためには根拠や理由ではなくて、「最大のリスク」から考えればいいんだと。それが正しいか正しくないかは分からないものの、自分の中ではある程度納得のいく形で言葉にできるくらいの一つの思考として手にすることができたのです。

僕は、もしかしたら一皮向けたのかもしれません。

しかしそれは証明することができないので、自分だけの感覚として大事にしておくことにします。

さて、25歳の人生も残り僅かです。
日々、後悔のないように一生懸命生きていきます。

酸いも甘いも、楽しんで、楽しんで。

Yes, I do.

そしてYes, I canにしていきます。

2013年9月11日水曜日

広告について考えること

初めてiPhoneから投稿してみます。
特に理由はありません。

初めてのことをやってみたかったのと、読んでいた本を読み終えてしまっただけです。

さて、何について書きましよう。

そうだ。ここでは最近考えることについて、簡単に書きます。

最近考えること。
それは、広告についてです。

とはいえ、広告費の推移がどうとか、これからの広告はこうなっていくべきだとか、小難しい話はしたくても、できません。

なので私が消費者レベルで感じることを書きます。

今、私はいわゆる広告代理店にいます。なので広告枠を売る立場にいます。

お客様の宣伝のために、媒体社(大手だとYahoo!とか、MSNとか)から広告枠を買って、そして売ります。

毎日のように広告枠を売っていますが、同時に広告自体をつくってもいます。

ですので、正確に言うと、広告枠を買って売ること。そして広告自体を制作すること。その両方をやっています。

当然ですが、日々広告に触れています。詳しくは書きませんが、私が仕事で、目にする広告は、いわゆるブランディング広告ではなくて、買わせる通販広告です。

買わせる広告とは、クリックさせて、
購入させてナンボの広告なので、ブランディング広告とは、そもそもの目的が違います。

すると当然、見た目も異なってきます。見た方がわかりやすいと思うので、Yahoo!のトップ面を見てください。多分、右上らへんに広告が出るはずです。

ブランディング広告も中にはありますが、健康食品や化粧品などの買わせる通販広告を目にすることと思います。

そして、ここからが私が最近考えることです。

買わせる広告が非常につまらない。

素人の発言だと思ってあしらって頂いて結構ですが、つまらないと思います。

なぜなら、多くの広告がマスに対して、つまり誰でもない誰かに対して打たれているからです。

消費者側もそれはもう肌感覚で分かっているし、かつそのことに対して疑問は持たないでしょう。

その結果、クリック率は数年前に比べて10分の1以下になっていますし、クリックされても購入にいたるパーセンテージは1%以下。なんてザラってな現状です。

そんな中、それでも消費者に買ってもらうにはどんな工夫が必要か?あるいはこれから必要になってくるのか?
それこそ、知恵を絞らないとならないことです。

これはあくまで私の個人的な意見ですが、人がモノを買うのにこれからは共感と感動。この二つがキーワードになっていくと思います。

いきなり何言ってんだこいつ、と思われましたか?
ただ私はふざけているわけではありません。

理由は単純明快です。
これだけ情報が溢れている世界で、何が良いモノかを買う前に判別するのは難しい。お店で手に取れるならまだしも、通販だと余計に難しいと思います。

それなら、そのモノの情報を伝えたいわけですが、データを数字で並べても面白味がないし、売上日本一!なんかは仮に本当であってもなんだか胡散臭い気もします。

だからこそ、私は思うのです。
伝えるべきは、そのモノが生まれた背景や作った人の想いであると。そのモノに宿っている魂や感情こそを伝えるべきであると。

これからの時代は、そこに共感して頂いてこそモノが売れる時代だと思うのです。

実際には上記したような取り組みで、LP、つまりランディングページを作っています。

広告をクリックすると表示されるページです。ですので、とにかくランディングページに呼び込む仕掛けが、買わせる広告である。といっても全くの間違いではないのです。

だから私が本当につまらないと思っているのは、広告そのものだけではなくて、つまらない広告をクリックさせてLPに呼び込んで買わせるという流れなのかもしれません。

さて、そろそろこの文章は終えたいと思います。また何かつかめたら、広告について書きたいな。と、そう思います。ここまでお付き合い頂いて、ありがとうございました!!

2013年9月10日火曜日

自己中心的人生終了論

決して焦っているわけでも、何かに取り憑かれたわけでもないです。

ただ、なんだか26歳を前にして人生についてこう考えている自分がいます。

もう、そう、死ぬまで気が遠くなるほど長いわけじゃない。
死ぬ間際になって、後悔するような人生だけは送りたくないと。

そんなことをちらりちらりと考えていたら、一つのことに気がつきました。

それは、僕が自己中心的に生きる人生はもうすぐ終わるのだな、ということです。


誤解を招く表現なので、きちんと補足します。
何も僕が今まで人との関わり合いに反発して、自己中心的に生きてきたかと問われたら、それはNOと答えます。

ただ、この先の人生のことを考えると、今までの自分の人生はえらく自己中心的だったように思うのです。

まだ未来の話ではありますが、つまるところ、家庭を持つことを想像すると、そういった答えに行き着きくのです。

きっと、何をするにも奥さんか、子どもを頭に入れて選択するでしょうから、きっとそれは僕だけの人生ではなくなるのでしょう。自己中心的になんて、なれないし、なりたいとは思いません。

だから僕は、ここら辺で一つ25年間という人生に幕を下ろすことイコール、自分だけのために過ごした人生に終わりを告げようとしているのかもしれない。そんなことを考えるのです。

もうこれ以上、この話は発展しませんが、
たまには(いつもだよと突っ込まれそうですが)こういった靄のようなまとまりのない話をしてもよいではありませんか。

お後がよろしいようで・・。

2013年9月8日日曜日

See you soon.

僕は今、東京に住んでいながらにして。
東京という街が持つスピード感溢れる日々から、できれば逃れたい。
・・といった願望を秘かに持っている。

持っていながらも、そう。今日も東京のど真ん中に暮らし営みを続けるわけだけれど、
心のどこかにそういった想いを抱いている。

それはおそらく間違いがないのである。


閑話休題。

さて私、もうすぐ25歳という節目の年に幕を下ろします。
25年を言い換えると四半世紀。

人生50年と謡った敦盛をそのまま受ければ、人生の半分を過ごしたことになります。

このタイミングだからなのか、やたらと最近人生を俯瞰して考えて、
今、まさに今。何をすべきなのか。今しかできないことって何なんだろうかってこと。
そのことをぐるぐると考えている気がするのです。

30歳になるまでの4年間で、僕の人生(後半)が大きく決まるでしょう。

一体、何をどうチョイスして、どっちの方向に進むべきなのか?
そいつをそろそろ(ある程度)本格的に決めにかからねばならん。
そう、そんなことをぐるぐる考えている気がするのです。


文章が私の頭の中のごとく、やや複雑怪奇になってきたので、シンプルに。

一つは、パートナー。
一つは、仕事。
一つは、住む場所。

・・といったところでしょうか。
それぞれを今まさに。翼から抜け落ちた羽毛が地面に着地するかのように、静かに或るべきところに落ち着こうとしているのです。(前述した言葉を引用すれば、そろそろ本格的に決めにかかってきている。とでも言いましょうか。)

しかし中でも、仕事と住む場所はまだ少しフワッとしています。

それぞれに書くと、「こういった仕事をしてみたい」といったイメージは、ココ最近でぐっと固まってきました。しかし、まだアウトプットに至っていないので、立ちはだかるハードルがまだまだあります。

住む場所は、まだイメージすら固まっていません。もう少し「住む」ことを考えながら、色々と足を延ばしたいものです。

そしてここで、「東京という街が持つスピード感溢れる日々から、できれば逃れたい。」
・・といった気持ちがむくむくと頭をもたげるわけです。
(ここで冒頭の話に繋がるわけです。)

前にもこのブログで書きましたが、一年間を福岡で過ごしてみて、すごく感じました。
普通だと思っていた東京のスピードが改めてとてつもなく早いのだと。
情報も流行も消費も。とにかくメマグルシイスピードでもって右から左に流れていく。
休日にどこかに行こうとすると、大抵は人ごみに囲まれる。
そんな東京を心から好きでいながら、一方で少しの期間は離れて暮らしたいものだと、
そう素直に思っている今日この頃であるのです。


さて、そんな心に浮遊する形にならない白い雲のような想いを抱いて、
今日も私は東京の空の下で息をします。

未来を想像して、大切な人と言葉を交わして、なるようにしかならない人生を、
時に笑いながら、時に憂いながら、生きていきたいと思うのです。

頼んだカフェモカはすっかり冷めてしまいました。

See you soon.

2013年9月1日日曜日

整理整頓

昔からではないです。
だから、年を重ねるごとに少しずつ好きになったんだと思います。

何の話でしょう?
それは、整理整頓の話です。



私は、整理整頓が好きです。
部屋の中は比較的綺麗だと思うけれど、特に整理整頓をするのは仕事において。

メールのフォルダ分けもそう。

資料のフォルダ分けもそう。

資料のタイトルも統一感がないと嫌だし、
テキストのフォントやスペースが合っていないと直したくなります。

人には90%くらいの確率でA型だと言われますが、実はO型です。

しかし、自分でも仕事の時の性格はA型っぽいと思います。

結構、似た性格のO型の人は多いような気もしますが・・。



この整理整頓が好きな性格が作られたのは、社会人2年目の時でしょう。

私が見よう見真似をしていた大先輩が、整理整頓を非常に大切にしていました。

整理整頓をする理由は、何も見た目を綺麗に整えるだけの行為ではありません。

必要とするものを、必要な時に、すぐに手にするために、整理整頓は必要です。

必要な資料をすぐに手に入れられずに、延々とデスクトップ上のファイルを開けては閉じて、開けては閉じてと繰り返した経験がある方はいませんか?

私は、こうした時間が非常に好きではないです。
フォルダのどこに、何があるのかを把握していたいし、
必要でない資料は捨ててしまいたいです。


また、整理整頓をすることは、過去の情報と向き合う行為でもあります。

いつぞやに放り込んだだけの資料を、今一度。
必要か、そうでないかをジャッジするために確認するのですから、
すっかり忘れていた過去の情報と、向き合わずには整理整頓はできないからです。

向き合って、ジャッジする。
その行為を繰り返して、不必要なものを捨てる。
そしてまた新しい情報を手に入れるスペースを作る。

整理整頓とは、ものすごく奥が深い行為だと思うのです。

さて、私には寝るまでにもう少し時間がありますから、
本棚でも軽く整理整頓して、眠りにつきたいと思います。