2013年9月20日金曜日

諸行無常

僕にとって文章を綴ることは例えば、草木が光を求めてその葉先を変えるように、あるいは小さな子どもが少し大人びて溜息をつくように、とりたてて取り上げて何かを語るほどのことでもない、自然で日常にある行為そのものであります。

ある時はノートに、ある時はそこらにある紙の切れ端に、またある時はこうしてかつては電話としてのみ使われていた文明の利器に、心のしじまをすり抜けて溢れ出た形のない不確かな想いの丈を、そっくりそのまま投写しようと手間暇をかけるわけであります。

ある人が水の流れを見て落ち着くように、ある人が木々のざわめきを聞いて穏やかになるように、僕は一つ文章を綴ることで自己の平静を自然と取り戻す術を身につけているとも言えます。

さて、僕はここでも何度か述べましたが、今年の三月に小説を書き終えて文学賞に応募しました。

その一連の行為を口にすると、多くの人は感嘆の声を上げますが、これが数十年前だったら?と思うと、ちっとも同じような反応が返ってくることをイメージできないのも事実です。

そう。現代人は文章を書く機会そのもののを失いつつあるように思うのです。

それは時代が変わってしまったからだと、一言で片付けるのは間違いではありません。なるほどその通りです。電報はメールになり、便りはFacebookになり、誰に届くとも分からない心境の吐露はこうしてブログになりました。

確かに時代は変わりました。そしてこれからも変わり続けて行くでしょう。おそらく100年前にも人々は同じようなことを言っていたかもしれません。

ただ僕は思うのです。では人も同じように変わったのか?と。時代の移り変わりとともに、僕たち人も変わってしまったのか?と。

答えなんてありません。推し量る根拠もないでしょう。それであればここは、まだもう少し続くであろう私自身の寿命が絶えるまで、この世界をこの目に映し、変わる時代とそこに生きる僕ら自身を見つめて行く。

それもまた一興だと思うのです。

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